越前一の宮、気比神宮は神代よりあって、その神人は北は佐渡、西は山陰地方にまで広がっていた。気比社は越前国国府(府中)と相対して、独立的な勢力となっていた。平安期正一位勲一等に昇格、明治には官幣大社となり鎮護国家の社として歴史を歩んできた。敦賀の歴史は気比神宮と共にあった。

クリックで戦前大鳥居
大鳥居

祭神七座

伊奢沙別命(氣比大神)
帶仲津彦命(仲哀天皇)
息長帶姫命(神功皇后)
日本武命
玉姫命
武内宿禰命
譽田別命(應神天皇)

室町時代作成と伝えられる気比社古絵図(補修版)

大鳥居の歴史は通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(八一〇)の造営時に東参道口に創建されたが度重なる災害に依り倒壊した為正保二年(一六四五)境域の西門に配し同礎石を移し寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居である。明治三十四年国宝に指定(現在は国の重要文化財)木造では天下無双の大華表と古くから呼称され各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行なわれ今日にその偉容を伝えている(鳥居案内板より) 戦前の旧本殿
本殿

気比神宮中門
中門から本殿

有栖川宮親仁威親王染筆
古くは「けひ」を「気比」・「笥飯」と書いたり、社号を「社」・「宮」・「神社」・「(大)神宮」と称したりと様々であった。主祭伊奢沙別命(通称氣比大神)は二千有余年の昔神代から此の地に鎮り給うた。大宝二年(七〇二)勅に依り社殿の修営を行ない仲哀天皇神功皇后を合祀した。また日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。延喜式に「祭神七座並名神大社」とあり類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されており、此の七座の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代天皇をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治二十八年官幣大社に昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜わって氣比神宮と称した。また、北門の鎮護たるのみでなく日本有数の古名大社である。地元では通称「氣比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信仰を集め九月二日より十五日に及ぶ例祭は「氣比の長まつり」としての名を留めている。上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和四十三年畏くも天皇皇后両陛下の御親拝を仰ぎ、又昭和六十二年五月七日昭和の大造営に依る本殿遷座祭にあたり、再度幣帛料の御奉納を賜わり厳粛なる奉幣祭が営まれた。また、旧裁判所を移築して社務所としていたが、老朽化によって2011年社務所が新築された。(本殿案内板参考)
境内社

鹿角神社
祭神 都怒我阿羅斯等

式内村社 大神下前神社
祭神 大己貴命(おほなむち)

猿田彦神社
祭神 猿田彦命

 末社兒宮(このみや)
小児の守神 
伊弉册尊
敦賀の地名由来になった渡来人ツヌガアラシトを祀る摂社角鹿(つぬが)神社は『延喜式神名帳』に小社として記載されている。古く政所神社とも称し、また正安3年(1301年)までは境内の表口であったことから門神(かどかみ)とも称された 元天筒山麓に鎮座し、気比神宮の境外末社。金刀比羅大神、稲荷大神を合祀して、祭神三座。明治44年鉄道敷設のため気比神宮境内に奉設した。
神明社(内宮・外宮)
神明社
天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社。通称「お伊勢さん」と呼ばれる。天照大神(あまてらすおおみかみ)は、太陽を神格化した神であり、古代においては王家の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止されたが世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになった。
 
境内より気比大神降臨の地天筒山を望む
境内摂社群
摂社
伊佐々別神社伊佐々別神社(伊奢沙別命荒魂 } 末社擬領神社(稚武彦命) 式内摂社天伊弉奈彦神社(第七之王子宮:伊佐奈彦神) 式内摂社天伊弉奈姫神社(第六之王子宮:天比女若御子神) 式内摂社天利劔神社(第五之王子宮:天利劔大神)末社鏡神社(第四之王子宮:神功皇后宝鏡・天鏡尊) 末社林神社(第三之王子宮:林山姫神) 末社金神社(第二之王子宮:素盞嗚尊) 末社劔神社(第一之王子宮:姫大神尊)
土公(気比宮古殿地)
古来より「触るべからず、畏み尊ぶべし」と気比社記にあり、天筒山に霊跡を垂れ、気比大神が降臨した地とする。伝教大師、弘法大師が祭壇を設け、7日7夜の修業をなしたと伝えられている。大宝2年(702)気比神宮造営以前はここで祭祀が営まれた。土公は陰陽道の土公神の異称。
(案内板より)
クリックで案内板
 市立北小学校校庭にある土公さん
気比社 変遷
  神階の変遷  
天平3年(731年)までには従三位 (『新抄格勅符抄』)
承和2年(835年)2月23日までには正三位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「気比大神」
承和6年(839年)、従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「気比大神」
嘉祥3年(850年)、正二位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「気比神」
貞観元年(859年)、従一位勲一等 (『日本三代実録』) - 表記は「気比神」
寛平元年(889年)、正一位勲一等 (『日本紀略』)
古 代 中世・戦国時代・近世
持統天皇6年(692年)封戸20戸が増納され『日本書紀』、天平2年(730年)には封戸200戸が充てられ、その後天平神護元年(765年)更に44戸が追進された『新抄格勅符抄』ほか、宝亀元年(770年)を初見『続日本紀』として奉幣もたびたび行われるなど朝廷から厚遇され、延喜の制で7座全てが名神大社に列した。また『気比宮社記』によれば、大宝2年(702年)に初めて文武天皇の命で社殿が修造されて以来、社殿造営は勅命によるものとされ、遷宮にあたって勅使が差遣される例であったが、弘仁元年(810年)を最後に勅による造営は絶えたという。更に霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂が夢告によって気比神宮寺を建立して、早くから神仏習合が行われていた1例を示す。『武智麻呂伝』 中世における興亡
平安期から鎌倉期気比社は隆盛をなし、その封戸社領は気比庄をはじめ越前、加賀、能登。越中、越後に及んだ。
しかし、南北朝争乱において、大宮司気比氏治や社家は南朝方に参加し、敗れ、社勢は衰退した。加えて、戦国期、大宮司気比憲直(けひのりなお)が越前朝倉氏についたため、元亀元年(1570年)、織田信長の越前攻略により、社殿焼失、社領没収(気比の松原も含む)、社家、社僧の離散等社勢は衰退した。
近世

福井藩祖の結城秀康によって再興されるとともに社領100石を寄進されて以来、福井藩や小浜藩の保護を受けた。
  神 職  

古くは角鹿国造の流れを汲む角鹿氏が管掌したとされるが、宝亀7年(776年)、朝廷により初めて宮司職が置かれて(『続日本紀』)以降、律令制下ではこれを大中臣姓の者が占めたようで[4]、延暦23年(804年)からは就任に神祇官の認可が必要とされた(『日本後紀』)ほか、渤海使の客館(松原客館)を監督する任務も託された。また禰宜・祝職も古くからあったようで、承和2年(835年)には両職の者に把笏が許されている(『続日本後紀』)。なお『朝野群載』に、承暦4年(1080年)、神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録がある。その後大中臣姓と角鹿姓を称する48の社家が、大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職を襲い、中でも南北朝の争乱で恒良・尊良両親王を奉じて参戦した大宮司気比氏治(けひ うじはる)、斉晴(なりはる)親子が有名である。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあった。室町時代からは社家に菅原姓の者も加わったが、信長の越前攻略により、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の島家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなり、明治4年の太政官布告を以て社家制度は廃止された。「福井県史」より

渤海使と気比社
 渤海使を供応した施設として敦賀に松原客館があった。一般に「松原客館」といわれているが、史料に「松原客館」とみえるのは、『延喜式』雑式に一回の記述があるだけである。「凡そ越前国松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」とある。松原客館を気比神宮司が検校したのは、入京前に越前国において渤海使がもたらす「疫神」「毒気」を祓うためであった

別宮神社
気比神宮の別宮(わかれ宮)別宮神社
気比の松原に隣接する敦賀市櫛川に現存する別宮別宮神社が気比神宮の「別宮」とすれば、気比神宮「別宮」が松原客館の管理にもあたったと思われる。さらに北陸道のみならず若狭国との交通体系、および敦賀津を起点とした北陸道の海路交通の体系のなかに松原駅館を位置づけると、松原駅館を現在の気比の松原付近に求められる。また、穢れをもちこむとされる渤海使をやや隔離するという意味でもこの比定地はふさわしいと推定される気比神宮の別宮(わかつみや)の前にある松原遺跡は径30〜100cmの浅い皿状に掘られた遺構が14ケ所あり、それらからは須恵器の高台付碗・碗・皿・長頚壷・平瓶・短頚壷など、素文鏡、銅鈴、銅銭(和同開珎・神功開宝・隆平永宝)、鉄製刀子・剣・釘のほか、赤褐色の焼けた粘土塊が出土している。出土品から穢れを払う鎮火儀礼が行われていたとも推測されている『敦賀市史』より 
松原駅館の比定地
境内点描
気比神宮絵馬堂
絵馬堂



戦前の奉納額
松尾芭蕉像
境内松尾芭蕉像

長命水

社務所(旧裁判所移築
の細道・敦賀
1689(元禄2)年8月14日、芭蕉は等哉を同道して、木の芽峠から敦賀に入り、出雲屋という旅宿に泊まり、気比神宮、海路色ケ浜本隆寺を訪れる。

敦賀で詠んだ俳句
月清し遊行の持てる砂の上
名月や北国日和定めなき
寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

波の間や小貝にまじる萩の塵

お砂持ち神事モニュメント
神楽通り交差点モニュメン
お砂持ち神事
承安3年(1301)時宗2代目遊行上人他阿真教が敦賀に滞在中、気比社の西門前参道は沼地(東の入り江)にあり、参拝者が難儀していた。それをを知った上人は、自ら浜から砂を運び改修した。現代もこの神事は続けられている。元禄2年松尾芭蕉は「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んだ。
総参祭
毎年7月22日、気比神宮の御祭神・仲哀天皇を納めた船神輿が海を渡って気比神宮の奥宮である常宮神社の神功皇后に逢いに行く神事。

船神輿

敦賀港から常宮神社に向かう神輿船



船神輿行列
常宮神社
神功皇后の「つねに宮居し、波風静かなる哉楽しや」との神託に因ると伝え、古くは「つね(の)みや」と訓読されていたが、中近世から音読されるようになり、明治元年(1868年)に現在の社名に決定した。気比神宮との関係は、古くは氣比神宮を「口宮」、「ひもろぎの宮」、「上社」と称すのに対して、当社をそれぞれ「奥宮」、「鏡の宮」、「下社」と呼応した。
常宮神社本殿
本殿

海側に県道ができる以前の拝殿(気比神宮に向かっている)
常宮神社中門
中門ぁら本殿
常宮神社由来 朝鮮鐘
天八百萬比当スは上古より養蚕の神として霊験あらたかに此の地に鎮まり給い、今から約二千年前、仲哀天皇の即位二年春二月に天皇、皇后御同列にて百官を率いて敦賀に御幸あり笥飯の行宮(気比神宮)を営み給うた。その後天皇は熊襲の変を聞こし召され、紀州へ御巡幸せられ陸路山陽道を御通過、山口県へ向はせ給う。皇后は二月より六月まで此の常宮にとどまり給い、六月中の卯の日に海路日本海を御渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会遊ばされ給うた。此の由緒を以って飛鳥時代の大宝三年(七〇三年)勅を以って神殿を修造し、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇・日本武命・玉妃命・武内宿禰命を合わせまつられた。爾来、気比神宮の奥宮として一体両部上下の信仰篤く小浜藩政まで気比の宮の境外の摂社として祭祀がとり行われた明治九年社格制度によって県社常宮神社となって気比神宮より独立した。
神社案内より
朝鮮鐘
国宝朝鮮鐘
新羅時代の梵鐘の遺品は少なく、日本に5例、韓国でも6例が現存しているにすぎません。この鐘は日本に伝わっているものとしては一番古く、唯一つ国宝に指定されている。この鐘は総高112cmと渡来鐘の中では大型で、銘文から9世紀後半に作られたこと思われる。菁州とは半島南部にある現在の慶尚南道晋州(チンジュ)にあたるが蓮池寺というお寺の所在については不詳である。社伝によると、この鐘は、16世紀末頃、敦賀領主であった大谷吉継が、豊臣秀吉の命を受けて常宮神社に寄進したものとされているが、それ以前に倭寇(わこう)によってもたらされたものだという説もある。

気比神宮の祭礼は例年9月2日から15日の長祭。その間2〜4日に敦賀祭が催される。   

各町内神輿
山車揃い
山車揃え 

各企業カーニバル

境内露店

各企業カーニバル

境内露店 
 
市民民謡踊り大会

夜店