古代、越の国と近江の国を結ぶルートの一つに疋田追分から塩津山を越える「深坂越え」があった。追分から西浅井町沓掛4.5kmの古道である。敦賀側の疋田追分から深坂峠までの道は往時を彷彿させる。 |
塩津山といふ道のいとしげきを賎の男のあやしきさまどもして「なおからき道なりや」といふを聴きて 知りぬらむ 往来にならす 塩津山 世に経る道は からきものぞと 紫式部 万葉集に登場してこの塩津山(深坂越え)で「み越路の手向けに立ちて」として歌を詠む。 鹽津(しおつ)山 打ち越え行けば 我が乗れる馬ぞつまづく 家恋ふらしも 笠金村(かさのかねむら |
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深坂古道へのアクセス 敦賀より JR北陸本線新疋田駅より徒歩10分(深坂集落を通過) 滋賀県塩津より 国道8号近江鶴ケ丘バス停より徒歩17分深坂地蔵駐車場 |
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深坂古道入口 |
疋田 旧敦賀市愛発(あらち)村疋田、敦賀市街の南方 にあって新道野道(現国道8号)と七里半越え(現国道161号)が合流する地点である。古代、追分(新疋田駅付近)で七里半越えから別れて深坂越えの道に分かれた。この交通の要所に古代三関の一つ愛発の関があったと推定される。恵美押勝の乱では越前に入ろうとした恵美押勝はこの愛発の関で阻止された。また、戦国期朝倉家の前線基地である疋壇城が築かれた。朝倉義景は北近江で織田信長と戦い、刀根坂峠で壊滅的な敗北を喫し、この疋壇城に逃げ込んだが、一夜にして一乗谷に逃走した。七里半越えに沿って流れる五位川の鮎でなれ鮨が作られていた。 |
深坂古道へは北陸本線新疋田駅から50mほど国道161を南、深坂集落を抜けて、入口に至る。その間、500mほど。 | ||
深坂古道 | ||
苔生す道 |
つづら折りの道 |
小川が流れる道 |
![]() 深坂峠案内板(敦賀側入口) |
深坂峠 |
![]() 近江への下り坂 |
峠の周辺(塩の道) |
深坂地蔵(堀止地蔵) |
問屋跡 |
新道野への道 |
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深坂峠の標高 370m、この峠を挟んで東側の尾根頂上には南北朝時代に築かれたと思われる山城があった。、また、西側尾根には戦国時代のものがある。当時の土豪がこの街道を軍事的に重視していたことがうかがえる。また、この深坂峠を越える運河計画が近現代までなされた。平安末期、1150年頃(久安6)越前国司であった、平清盛の嫡男平重盛が敦賀・琵琶湖の運河計画をしたと伝えられている。大きな岩盤に阻まれて成功しなかった、と峠近くの深坂地蔵(別名堀止地蔵)は伝える。この地蔵には塩を供える習いがあることから、敦賀湾、若狭湾各地の製塩がこの峠を越え、琵琶湖の水運で上方に運ばれたことも伝える。江戸時代になると大量の物資輸送が求められ、近世になって「新道越え」(現国道8号線)が開発された。地蔵堂下ったところに往時を偲ばせる問屋場跡がある。深坂越えの古道は徐々にその役割を終えて明治11年頃廃道となった。 |